われら専修人 vol.13 お客さまに声をかけ、寄り添い、ご要望をうかがう。その積み重ねが信頼を育む 桑野 光正 株式会社ヤマダ電機 代表取締役社長 兼 代表執行役員COO

国内外のグループ店舗数1万2,000を超える家電量販店の雄、ヤマダ電機。
昨年社長に抜擢された桑野光正さんは、同社に買収されたダイクマ出身だ。
自分を応援してくれた人たちが就任を喜んでくれたことがうれしかった、という桑野社長に、経営者として人を育てる秘訣をうかがった。

僕が社長に?専大で学んだ人間関係学生時代はハンドボールに入魂


桑野 光正さん

「はっ?」というのが第一声だったと記憶しています。昨年(2016年)、山田昇会長(当時は社長)から社長に指名された時のことです。当時、私は総務本部長で人事の責任者でした。「社長はお前にやってもらおうと思っているが、どうだ」と聞かれたとき、瞬間的に思ったのは、社長が私を指名するということは並大抵なことではない、いろいろな候補者をずっと考えて、お前に決めたということだろう、と。普通だったら、ひと晩考えさせてくださいとか、女房に相談しますとか言うんでしょうけど、考える時間をもらったり断ったりすることは、失礼だと思ったので、わかりました、やらせていただきますと答えました。

その4月、社長に就任。私は既存ビジネスの家電量販や人材育成を担当し、山田会長は新規事業、一宮忠男副会長は構造改革を担当するトップ3人の新体制がスタートしました。

私は中学・高校とバスケットボールをやっていたので、バスケットの強い専修大学に入りました。ところが、体育会のバスケ部は全国の強豪校から優秀な選手が数多く集まっていたうえ、全員寮生活ということでした。私の実家は神奈川にあり、十分通える。寮生活はお金もかかるし、親に負担をかけたくないので、バスケ部は諦めました。

それでハンドボール部に入りました。当時(1974年ごろ)はマイナーなスポーツで、ほかの体育会に比べると弱かったですが、逆に未経験者でもやれるのではないかと思ったのです。そのときの同期は私を含めて3人で、みな素人でした。7人でやるスポーツですが、部員は全員で14人くらいでした。

ハンドボールの関東学生リーグはそのころ5部まであり、私が入った時、専大は4部で、3部と4部を行ったりきたりという感じでした。われわれが3年の時に私がキャプテンになりました。ちょうど1年生に秋田出身でトップクラスのキーパーが入ったことでチームワークがよくなり、少し強くなってきた。それで夏の合宿で一生懸命練習し、4年の春の最後のリーグ戦だと思いますが、3部で優勝し、2部の入替戦に挑みました。いまでも覚えていますが、駒澤大学に勝って2部に上がった。そこで私たちは引退したわけですが、このときに「努力すれば結果は出る、希望は達成できるんだ」ということを身をもって体験しました。ですから学生時代はハンドボールに打ち込み、勉強はほとんどしていません(笑)。

イトーヨーカ堂に入社、赴任先の札幌で得た経験が原点に

卒業して入社したのはイトーヨーカ堂です。当時は就職状況があまりよくなかったのですが、イトーヨーカ堂などの小売業は急成長していたので大量採用していた。だから私でも入れるかもしれないと思って(笑)。

役員面接でダメだなと思ったんですが、人事の人から「君は小売業に向いている」と言われた。おそらくハンドボール部で学んだ上下関係の礼儀や作法が生きたのだと思います。

ところが入社2年目に、北海道の札幌松坂屋とイトーヨーカ堂が1979年に提携してできたヨークマツザカヤ(現・ススキノラフィラ)に出向することになりました。私はインテリア担当で、売場のチーフ。私の上のマネジャーはイトーヨーカ堂の人間でしたが、それ以外は全員松坂屋のメンバーです。

企業文化の違いには驚きました。われわれは仕事が終わるまでやるという文化で残業は当たり前でしたが、松坂屋の人は仕事が残っていても18時になると帰る。だからマネジャーと2人で残業していた。私1人で12時くらいまで働いていたことがよくありました。

松坂屋の人はわれわれに抵抗があるから、最初はうまくかみ合わなかったのですが、半年を過ぎたころから、お互いに歩み寄るようになった。私もそうですし、向こうも朝、出社したら残した仕事が終わっているわけですから、そういう姿を見ていたんだと思います。だんだん融合し始めた。このときの経験がその後、そしていまもひじょうに生きています。

ヤマダ電機「礎生塾」創設に関わり小売業の基本に立ち返る


取材を行ったJR高崎駅東口ペデストリアンデッキ直結の店舗「LABI1高崎」。10~12階が本社となっている。

結局、札幌には5年ほどいて、紆余曲折を経て、イトーヨーカ堂グループのディスカウントストア・ダイクマに転職したんです。そして本社の人事部にいたときに、ヤマダ電機に買収され、2004年にヤマダ電機に入社しました。

入社して間もなく、当時、山田会長が箱根につくっていた「礎生塾」という研修センターの責任者に任命されました。私はダイクマで教育担当だったからだと思います。

礎生塾では毎週、店長を呼んで、4泊5日の研修を行っていました。研修は木曜日に終わるんですが、その日に必ず山田会長が来る。そして私と会長の2人だけが宿泊する。日本でも有数の創業者と毎週2人だけで話をし、多くのことを学ぶことができたのは大きな幸せです。

もう一つ、4泊5日、店長と寝食をともにしますから、全国の店長を知ることができたのがものすごく大きかった。その店長がいまエリア長などに昇進しているので、私がこういう立場になって、何か言うと応えてくれる。その意味で私のヤマダ電機でのすべての原点が礎生塾にあります。

応援してくれた周りの人たちの期待にこれからも応え続けていく

私が担当する既存ビジネスについては、やるべきことはシンプルだと考えています。私は小売りの基本をイトーヨーカ堂で教わりました。きちんとした応対、丁寧な接客です。ヤマダ電機はそこに課題がある。2001年に売上高3,000億円になり、競合を抜いて業界トップになってから、5年間で1兆円企業になりました(17年3月期の連結売上高は1兆5,630億円)。そういう急成長した会社だから、山田会長が心配だったのは教育、人の育成だったんですね。私が社長になったのも、それが大きいと思います。

正直、当社の社員は評判が悪かった。「売ってやるよ」というような態度で。まず、それを変えること。少子高齢化やネット通販の台頭でお客さまの数は間違いなく減るなかで、どう対応するのか。そのためにはお客さまに向かい合わなければダメです。お客さまに声をかける。何を探しているのか、何を買いに来たのか。特に高齢の方は、絶対に何かを買いに来ている。たとえば電池1本、電球1個などでも、絶対に逃さないようにする。100円でも売り上げになります。そういう対応を積み重ねていくと、お客さまは必ず戻ってきてくれ、次はエアコンや冷蔵庫を買ってくださる。そういう考え方をしなさい、と、昨年から現場を回って話しています。それをヤマダ電機はやっていなかったので、当社にはまだまだ伸びしろがいっぱいあるわけです。

私が社長になって一番うれしかったのは、私を応援してくれた人がたくさんいて、その人たちがものすごく喜んでくれたことです。本当に周りの人に支えられたという気持ちが強い。そういう人たちをガッカリさせないためにも、恩返しではないですが、努力しなければならないと思っています。(談)

校友会130周年へのお祝いメッセージ

専修大学校友会は今年130周年を迎えられるということで、誠におめでとうございます。校友へのメッセージとして、偉そうなことは言えませんが、一つは私のような人間でも会社のトップになることができたということです。私は買収された側のダイクマ出身です。ですから誰でもがんばりようによっては社長になれるかもしれない。そういうことを感じてくれる人がいるのではないかと思い、それに応えるためにも私はがんばらなければいけないと思っています。

くわの みつまさ●1954(昭和29)年、神奈川県生まれ。77年経済学部経済学科卒。イトーヨーカ堂、ダイクマを経て2004年ヤマダ電機入社。研修施設「礎生塾」塾長、取締役常務執行役員 総務本部副本部長、取締役 兼 執行役員常務 総務本部長 兼 人事構成改革室長などを歴任。2016年から現職。