
法学部法律学科を卒業した新本博司さんは、当時まだアメリカ占領下の沖縄で石油の輸入を独占的に扱っていた琉球石油(現・株式会社りゅうせき)に入社。
同社社長が参議院議員となった際には議員秘書を務めるなど、さまざまな経験を積み重ね、今年の7月から1年間、国際ロータリー東京・沖縄エリアのガバナーを務めます。

私は、終戦の年、1945年の6月7日に台湾で生まれ、終戦後に沖縄へ引き揚げました。あのような時代でしたから、この年に生まれたこどもの数は、一番少ないといわれています*¹。すでに父は亡くなっていましたので、育ったのは母の実家である石垣島です。食べ物も、何もかもが不足していて、生活は楽ではありませんでした。いわゆる貧困生活ですね。
でも、私は自分のことを貧しいと思ったことはありません。理由は、母が「教育は財産だ」と、小・中・高と先生が側にいる環境をつくってくれたからです。先生方は、「東京タワーよりも高い人間になれ」と励ましてくれ、困ったことがあると必ずといっていいほど、アドバイスをくださいました。経済的には恵まれていなかったけれど、元来の前向きな性格も相まって、自分が置かれている状況を悲嘆するようなことはありませんでした。
大学への進学を目指したのは、弁護士になりたいと思ったからです。大学へ通うほどの金銭的な余裕は我が家にはありませんでしたが、その志は一貫していたため、まずは入学金や当面の学費を稼ぐために東京へ出て、1年間住み込みでお金を貯めることにしたのです。沖縄から神戸を経て東京まで、船で上京して代々木で1年、その後下北沢に住むようになったのが、東京暮らしのスタートでした。
進学先として専修大学を選んだ大きな理由もお金でした。専大は授業料が安かったんです。当時、年間4万5000円くらいでしたかね。他の大学にも合格していたのですが、そちらは学費が高かったため諦めました。学費から生活費まですべて自分で稼がなければならなかったので、1円でも安いほうがありがたかったのです。
そんな状況でしたから、学生時代も勉学とアルバイトばかりの生活でした。今の学生さんたちのように遊びを謳歌するような余裕はありませんでしたね。

でも、楽しい時間を過ごせたと、今でも思っています。弁護士を目指していたので法学部法律学科へ進学し、関法連(関東学生法学連盟)に参加。他大学の学生と交流したり、法学研究会では一期後輩の日髙理事長と一緒になったりと、友人たちとの楽しい時間を通して人脈も広がっていったからです。
卒業後も弁護士になりたい気持ちはあったのですが、何よりも食べていかなければなりません。相変わらず、生活にゆとりがあるわけではなく、勉強だけに専念できるような状況ではありませんでした。まずは「食いぶち」を得るために、地元・沖縄の琉球石油(現・りゅうせき)を受けました。後に、何百人という応募者の中から、入社できたのはたった2人だったと聞いて、驚いたものです。今でも、どうして自分が選ばれたのかはわかりませんが、この会社で、新たな出会いに恵まれることになりました。
私が入社した頃は、3年後に沖縄がアメリカから日本へ返還されることになるなど、時代が動いていたときでした。総務部法務担当となった私は、株式の日本円とドルの書き換えなど、返還にともなうさまざまな業務に携わることになったのです。
その一方で、返還されるまでに沖縄から国会議員を出そうという動きが出てきて、琉球石油の創業者である稲嶺一郎社長が参議院に出馬。当選して参議院議員として活動することになりました。それにともなって、入社2年目に秘書課へ異動していた私は「議員秘書として東京へ行ってくれ」という打診をいただいたのです。
秘書として付いている4年の間、社長は「今後の沖縄をどうするんだ?」と毎週のように私に問いかけ、海外研修など学ぶ機会をたくさん与えてくれました。ロッキード事件が起こったとき(1976年)も、私は日本にはおらず、デンマークで研修を受けていたんですよ(笑)。話がちょっとそれましたが、おかげで40カ国ほどを訪れ見聞を広めることができたのです。
このとき、社長から教わった「人を幸せにすることを考える」「これからの沖縄をどうするのか考える」という教えは、自分の基本的なスタンスにもなっています。大学の「報恩奉仕」の精神と社長の教えは、その後、私が那覇市の社会福祉協議会やロータリークラブという場で、チャンスを与えてもらいながら奉仕の実践ができている今日へと一貫してつながっています。
現在、ドリームサポート沖縄を設立し、沖縄が国内生産の大半を占めるモズクの有効成分「フコイダン糖鎖物質」の超低分子抽出技術に優れた企業と提携して『がんじゅう*²フコイダン』を販売しているのも、社長に問い続けられた、沖縄への恩返しと貢献の気持ちが根底にあるからです。沖縄を少しでも元気づけたいと、地元のものを使って、人の役に立てる商品をつくれないかと試行錯誤した結果が、この商品なのです。
私は今年の7月から、任期1年間で国際ロータリー第2580地区(東京都の北半分と沖縄県エリア)2019-2020年度ガバナー(統括者)を務めます。ロータリークラブに入ったのは、りゅうせきの関係会社で社長をしていたときのことでしたから、これも琉球石油に入社したおかげといえるかもしれません。そして、今では、ロータリークラブとの出会いに強い縁を感じるようになっています。なぜ、そこまで言うのかといえば、ロータリークラブが社会奉仕を掲げる団体だからです。

1905年に誕生したロータリークラブは、世界初の社会奉仕の連合団体として世界各地にネットワークを広げています。しかも、1920年に日本で初めての東京ロータリークラブ創立から100周年を迎える記念すべき年度であり、現在国際ロータリー会長を務めるマーク・ダニエル・マローニーさんは、私が人生を通じて大切にしてきた「つながり」の大切さを強調している方なのです。そのような方が、ガバナーとして共に活動できることに深い縁を感じずにはいられません。
日本は豊かな国だと言われていますが、一方で国民の7人に1人(沖縄県では3人に1人)が貧困という統計結果がでています。また、心の貧困も孤立しやすい社会環境をうみ、大きな社会問題となっています。経済的貧困も苦痛ですが、人間は社会的・心理的孤立に耐えられない生き物です。
このような孤立感や喪失感を少しでも和らげるには、つまずきを許容し、やり直しのチャンスを与え、人とのつながりを豊かにしていくしかありません。なかでもこどもの貧困が大きな社会問題になっている現在、私はガバナーとして、今年のターゲットを「奉仕の実践/平和で明るい未来」と掲げ、その解決のために奉仕してきたいと考えています。ガバナーとしてやるべきことは山のようにありますが、出会いを大切に「一期一会」の心で絆の輪を広げていきたいと思います。(談)
にいもと ひろし●1945(昭和20)年生まれ。沖縄県出身。専修大学法学部法律学科卒業。卒業後は沖縄へ戻り、琉球石油株式会社に入社。総務部法務担当、秘書課などを経て、役員まで務める。役員定年後は、株式会社ドリームサポート沖縄を設立して地元への貢献活動に注力しつつ、社会福祉法人那覇市社会福祉協議会会長、ロータリアン(ロータリークラブメンバー)として社会奉仕に全力を尽くす。
*¹:1944年〜1946年は、厚生労働省の人口動態調査に出生数のデータがなく、後年からの推計になるため「らしい」と表記しています。
*²:沖縄の方言で「頑丈」