
移動式の廃アスファルト再生機を独自に開発、日本国内のみならず、東南アジアでも舗装道路の補修工事を支援し、社会的貢献度の高い仕事を手がける新永隆一さん。プライベートでは飛行機、ヘリコプターを乗りこなし、災害時にはボランティアで救援物資運搬も行う。精力的な活動と、その原点となった専修大学時代を語る。

私が社長を務める九建総合開発は、創業以来、杭打ちのスペシャリストとして建築物の基礎工事を九州一円で手がけてきました。子会社の株式会社九建ほか関連4社とともに九建グループを構成し、現在、全体で社員96名、臨時雇用の人材も含めると110名ほどが在籍しています。
今から20年前、他社との一番の差別化は、“空撮”技術でした。依頼された施工物の着工前、竣工後、また災害発生時にはその状況などを空からヘリコプターで写真に収めるのです。操縦するのは私です。
実は、学生時代に知り合った友人がアメリカでヘリコプター・飛行機免許取得の講師をしていたことで興味を持ち、27歳のときに休暇を取って渡米。1カ月ほどでヘリの免許を取得、帰国してヘリコプターを購入したのです。
当社の技術は地元の熊本県や国交省からのニーズも高く、また災害救護などをボランティアとして行っている赤十字飛行隊の隊員として、阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本地震では救援物資を運んでいます。



大学入学は1982年。生田校舎下に当時あった寮へ入寮し、部活動はしませんでしたが熊本県人会に入り、その活動に力を注ぎました。会には応援団所属の先輩がおられて、専大“建学の精神”と“報恩奉仕”、礼儀作法から上下関係まで、みっちりと叩き込まれたものです。特に私が1年次のころは、とにかく先輩方の“指導”がアツく、私の逃げ場所は授業しかなくて「先輩、大学へ出てきます!」と(笑)。おかげで1~2年次のうちに単位はほとんど取得し、3~4年次はアルバイトばかりして過ごしました。
ゼミでは同郷・熊本出身の西川(利行)先生に師事し、野田醤油事件を事例に、談合や独禁法について勉強しながら、先生や仲間たちといろいろな議論を交わしました。楽しく学んだことがいい思い出です。4年次には、アルバイト先の居酒屋で知り合った方が勤める酒造メーカーへの就職も決まり、卒業を待つばかりでしたが、父親から、「家業を継いでほしい」と何度も言われるように。大学に入るとき、「俺は継がないから」と伝えていたのですが……。
父は、勤めていた杭メーカーから独立して、74年に現・子会社の九建を興しましたが、会社の将来も考えなくてはならない時期になり、どうしても息子に帰ってきて手伝ってほしい、という思いがあったようです。私は父の背中を見て育ち、建設業界の大変さを知っていたので、どちらかというと普通のサラリーマンになりたかったのですが、父は「お前しかいないんだ」と。ずっと迷いながら、卒業を控えて正月に帰省したところ、九建社員の方々が入れ代わり立ち代わり実家を訪れてきては、「会社をこうしていこう」と、父親と将来の夢を語り合うわけです。その皆さんの熱意を目の当たりにして、家業を継ぐことを決意しました。



そうして卒業後は地元に帰るわけですが、もともと家を継ぐ気がなかったので、建設業の知識はまったくなし。県の土木部が運営する学校で1年間勉強、建設技術を身に付けてから入社して、5年ほど現場で働きました。
当時の九建は、建物の基礎工事が中心の会社でしたが、私は県の学校で学んだこともあって公共工事に興味があり、その分野への進出を父に進言したのです。以降、現・親会社であるグループの九建総合開発とともに基礎工事、公共工事の両輪で事業を行っていたのですが、業務を分けることになり、92年に九建は道路工事・災害復旧工事・河川工事専門、九建総合開発は基礎工事に特化する形となります。
同年、私が九建の社長に就任してからは、建設業界での会社の立場を上げていくために、さまざまな活動をしました。当時、この業界は、まさに談合で動いていたのです。大学で西川先生から学んだ事例のリアルな実態を、「ああ、談合ってこういうものなんだな、これが法律に抵触するんだな」と、感慨を覚えながら知るわけです(笑)。そのころ私は27~28歳、まわりの社長は50~60代の方ばかりで、意見することなどはまったくできず、言われたことをそのまま受けるしかない。数年間、そんな状態でずっと押さえつけられていましたね。
35歳のころ、私が建設業協会の理事に上がり、そこから協会内の改革を行いました。特定の企業さんだけが優遇される談合は排除し、競争力、実力のある業者が受注できる制度を目指したわけです。また、地域で災害があった際などに、周辺の業者が協力して復興工事を行えるような協会を目指しました。公平な組織づくりが狙いでしたが、それまで我田引水を通してこられた一部の企業さんには嫌われましたね。それでも結果的に改革がうまくいったのは、父の地元への影響力が強かったからだと想像しますが、父に対して「息子をなんとかしろ」という話もたくさんあったことでしょう。でも父は、「息子が決めたことだから俺はタッチしないよ」と、一線を引いてくれていたようです。


そうしたなか、私が九建で開発したのが「移動式廃アスファルト再生機」で、古いアスファルトを再生し、改めて舗装で使えるようにするマシーンです。インフラ整備がほぼ整った日本国内において、先々の工事にどれだけ期待できるか? いま以上の需要は見込めるのか? と考え、絶対になくなることのない道路の維持補修・管理ならば継続性があるのでは、と注目しました。そこで、「道路に特化して何かやろう」と決意して、まったく知らなかったアスファルトについて、ゼロから勉強を始めることに。たまたま社の隣がアスファルト工場でしたので、視察させてもらいながらその成分を分析し、2005年ごろから廃アスファルトを再生する研究に着手。再生には、窯のなかで廃アスファルトを温めなおす必要があり、似たような製品をつくっていた仙台の会社にお願いして機械の開発を始め、温めては冷やすことを繰り返す日々。今考えると、なにもわからずによくそんなことを始めたな、と思います。無謀でしたね(笑)。
それでもようやく機械が完成し、特許も取り、世間に広めようとなったとき、アスファルト協会から「待った」がかかります。新旧アスファルトの混在は許されない、と。国交省・アスファルトメーカーともに同様の言説でしたが、こちらが目指すのはあくまでも道路の維持補修で、応急処置として工事を行うもの。統計上、該当する箇所は日本全体でも3%以下だということを伝え、なんとか理解を得られました。
現在、アスファルト工場のない離島や、工場から遠い山間部などで、この機械を全国に少しずつ広めているところです。具体的には、農道、観光農園の歩道、災害復旧、上下水道の仮復旧工事などに活用しています。防衛省でも採用され、その1機目が沖縄で稼働。今後、国内で約20台が運用される予定です。また、JICA(国際協力機構)の支援事業として、タイでも道路整備に利用され始めています。今後は、タイを中心としてASEAN諸国で需要を喚起していこう、と考えています。


18年に九建総合開発を父から引き継ぎ、グループ社員と家族の生活を守る立場となりました。人も建物も“確かな基礎をつくる”、というのが私の理念です。なにをやるにしても、基本的なことを固めていないと、いずれ立ち行かなくなると思っています。特にこの業界は、そうしたことがすぐ事故につながってしまう。だからこそ人材育成には力を入れており、社員には入社後1週間の研修中に、基礎をしっかり身に付けてから仕事に臨んでもらうようにしているのです。
私自身は、常日頃からあまり悩まない性格で、試練に直面したときでも、乗り越えられる、なせばなる、と前向きにとらえています。目には触れない建物の基礎のように、私の根底には専大での学びが“杭”として打たれていると感じます。そんな気持ちを持ちながら、世界へ目を向けていきたいですね。(談)
写真提供=新永さん
しんなが りゅういち●1963(昭和38)年生まれ。熊本県熊本市出身。専修大学法学部法律学科卒。東京の酒造メーカーへ就職が決まっていたが、父親の願いに応え、家業の一つ・株式会社九建に就職。実地で経営を学び、92年、同社社長に就任。2018年、実父が代表取締役を務めていた親会社の株式会社九建総合開発を引き継ぎ、現在に至る。