われら専修人 vol.30 八十寿を超えてなお、大きな夢を掲げてひた走る

 レスリングの特待生として専修大学に入学し、在学中は五輪出場を目指して、日々研鑽を積んだ今野邦廣さん。卒業後は入社した企業の成長に貢献し、40代で起業を果たす。成長を続けるグローバル企業を現役で率いる人物像に迫った。


さらなるシナジー創出のため、2023年8月よりグループ会社が集結した新社屋のエントランスにて

 半導体や電子部品の販売、ソリューション提供をはじめ、再生可能エネルギー事業など多岐にわたる事業会社を統括する、株式会社レスターホールディングス。東証プライム市場上場企業である同社は現在、「エレクトロニクスの情報プラットフォーマー」として海外市場の開拓を推進している。そんなレスターホールディングスの代表取締役会長兼社長CEOを務め、80歳を超えた現在でも最前線で陣頭指揮を執っているのが、今野邦廣さんだ。そのバイタリティは一体、どこからくるのだろうか。

人生を決定づけた、レスリングとの出会い

 同氏の力強さを紐解いていくと、高校時代から取り組んでいたレスリングに行きつく。北海道札幌市出身の今野さんは、高校3年生のときに北海道代表としてレスリングで国体へ出場していた。

「実は、母校である北海高校にレスリング部をつくったのが、私なんです。少年時代から、将来オリンピックに出たいという夢を持っており、どの競技なら出られるだろうか、と常に考えていました。中学生のとき、当時のオリンピックで北海道出身のレスリング選手が金メダルを取ったのを見て、これしかないと思ったのです。体が大きくない私でも、体重制だから勝負できると確信しました」

 しかし、進学した北海高校にはレスリング部がなかった。そこで、札幌にあるYMCAで行われていたレスリング教室へ、家族に内緒で通い始める。当時はプロレスの力道山が流行っており、レスリングにも同じような“流血”や“野蛮”というイメージを持っている人は少なくなかった。親に知られれば当然、反対されると考えていたのだ。レスリング教室で練習を重ねる一方で、ばれないようにという一心で高校では優秀な成績を収め、2年時には学級委員長も務めた。


レスリングでめきめきと頭角を現した高校時代

「練習を続けて、高校2年のときに北海道大会の55kg級に出場しました。そこでまったくの無名状態から、銀メダルを取ったわけです。大きな大会ですから、この決勝戦のラジオ中継を、何も知らない親父が聞いていた。2位になったのは、うちの息子じゃないか? と。それで親にばれてしまいます。ただ、この活躍が学校でも話題となり、北海高校にレスリング部をつくることができた。私が何かを成し遂げた、その最初です」

 学校側には、不良と目される生徒らがレスリング部を隠れ蓑に、乱暴を働かないかという懸念もあったという。しかし、優等生でレスリングにも優れた今野さんは、やんちゃな学生からも一目置かれる存在だったため、杞憂に終わる。

 その後、初めて出場した国体で4位という好成績を収め、各大学からスカウトされた。その中で選んだのが専修大学だ。

「YMCAのコーチが専修大学出身だったこと、また、専修大学のスカウトが非常に熱心だったことが大きかったです。特待生として迎えてくれるという話もあり、親に負担をかけたくないと考えていた自分としては、それが最大の理由で進学を決めました」

 今野さんは高校を卒業後、郷里を後にして生田キャンパスにある体育会の寮で新生活をスタートさせる。到着して先輩に連れていかれたのは、田畑に建つ納屋をそのまま大きくしたような、ぼろぼろの建物だったという。


昭和30年代半ばの専修大学生田校舎前にて(左)

「ここに住むのか……、と驚いていたら、それは馬術部の馬小屋だったんです。きっと、おんぼろといわれる合宿所よりも、さらに老朽化が進んでいる馬小屋を見せておくことで、ショックを受けないようにしてくれたんだと思います」

 そんな先輩の優しさに触れながら、学生時代はレスリングの練習に明け暮れていた今野さんは、自身が24歳のときに開催される東京五輪への出場を目指していたという。

 卒業時、今野さんには、2つの選択肢があった。1つは専修大学に残り、コーチをしながら五輪を目指す道。もう1つは、自衛隊の体育学校で鍛錬を続けるという道だ。しかし同氏が選んだのは、就職という第3の道だった。その理由は、五輪出場という夢とともに、いずれは自分で事業を興したいとも考えていたからだ。社会人として働きながら、トレーニングも続けられる就職先候補をいくつか紹介してもらい、今野さんが入社したのが三信電気株式会社だった。

1年目から経営目線。誰もが知る会社にする!

 三信電気に新卒で入社した今野さんは、35歳で取締役、42歳で専務へと出世し、手腕を振るう。ビジネスパーソンとしては輝かしい経歴だが、入社当初に抱いていた五輪出場は叶わなかった。


五輪を目指し練習の日々を送った専大レスリング部(2列目中央)

「レスリングを続けるつもりで紹介してもらった三信電気でしたが、入社してみると、会社にレスリング部はなく、バックアップも期待できない状況でした。その時点で、東京五輪出場は断念し、新たな目標として『三信電気を誰もが知る会社にする』と掲げたわけです」

 これが“新しい今野のスタート”だと、今野さんは当時を振り返る。当時の三信電気は、オフィスに並ぶ机は中古の寄せ集めで高さはバラバラ、お世辞にも一流企業とは言い難かったという。そんな環境の中、同氏は常に会社単位で目標を設定し、いかに事業へ貢献するかを考え抜いた。

 通常の新入社員であれば、まずは自分がどう成長するかを考える。いや、それすらも考えられず、目の前にある仕事をただこなすだけになっても不思議ではない。この視座の高さこそ、今野さんが成功を収めてきた要諦といえるだろう。その結果、三信電気は急成長し、年商10億円を記録。今野さん自身がオーナーを説得し、東証二部への上場を果たすなど、会社の発展に力を尽くした。

 35歳という若さで役職が付いた今野さんは、社内にレスリング部を設立。専修大学レスリング部の後輩である加藤喜代美さん(昭46・人文)と工藤章さん(昭51・商業)を迎え入れた。加藤さんはミュンヘン五輪で金メダル、工藤さんはモントリオールで銅メダルという輝かしい成績を残している。

「自分が果たせなかった五輪出場という夢は、環境を整え、後輩を連れてきて叶えることができました。後進の育成や支援こそが私の使命だと捉え、レスターホールディングスにも現在、五輪を狙っている選手が5人います。うち2名は、専修大学出身です」

 1987年、今野さんは独立し、レスターホールディングスの前身となる株式会社バイテックを設立する。開業時、23名の社員を前にして「5年で株式店頭公開を目指す」と宣言した。

「他にも公約として売上高1,000億円、自社ビル建設を掲げたのです。結果、6年目に株式公開となり、1年遅れではありましたが、単独で公開に至った企業としては最短記録でした」

 バイテックは1年目から売上高約82億円を記録し、翌年には約200億円にまで到達している。順風満帆の滑り出しには、日本を代表する大企業である、ソニーが絡んだ理由があったのだ。

 ある時期、ソニーとマッキンゼーが連携し、半導体事業1兆円戦略を掲げた。しかし、そのために不可欠となる外販のノウハウを持っていない。そこで、当時三信電気でNEC製品の外販で実績を出していた今野さんに、外販のノウハウを教えてほしいという依頼が舞い込んだ。NECの許可を得て、ソニーの半導体に関わる社員約80名を前に、堂々たるプレゼンを行った。それ以来、ソニーでは半導体外販の先生として、一目置かれていたという。


未来について熱く語る今野会長は年齢を感じさせない

 そんな折に、当時ソニーの社長だった大賀典雄さんから「わが社の半導体を1兆円事業に押し上げたい。そのために今野くんを外販のプロとして見込み、わが社のために力を尽くしてほしい」と話があったのが、起業のきっかけだった。

「私からの条件をすべて飲んでいただけるならやりましょう、と天下のソニーにつきつけました。ソニーからの資本提供と、役員を私から名指しで選んだのです。また、仕入れから代金回収までの期間が長くなるので、個人保証をつけた手形での支払いを提示しました。そして、これらの条件がOKなら、初年度50億円を達成してみせます、と大見得を切ったわけです」

 大賀さんは、これらの条件をすべて飲むと決断し、バイテックは起業に至った。それだけ、今野さんの活躍と手腕を、高く評価していたのだろう。その一方で周囲からは、50億なんて大言壮語だと一歩引いて見られていたという。

「ところが実際には、初年度82億円と目標を大きく超える結果を出したわけです。今の時代であれば、ソニー内部で各部署との調整も必要でしょうが、当時は大賀さんの一言で決する時代でした。スピード感がありましたね」

 以来、半導体商社としてバイテックは順調に成長を遂げ、他社との経営統合を行いながらレスターホールディングスに名前を変更、いくつものグループ企業が誕生していった。

「一度は経営を離れ、約14年間、社主として関わってきました。しかし、会社の成長が鈍化していることを感じ、70歳で会長職として経営の現場に復帰。その後、会長兼社長CEOとなり、現在も経営を続けています」

 今野さんが再び同社の舵を取るようになって以降、半導体の枠に収まらず、商社としての強みを活かして新たな分野に挑戦の幅を広げている。太陽光発電事業、医療介護事業、さらに2023年からは海外展開により一層注力している。

「日系企業の海外事業を支えるビジネスモデルから卒業し、世界のローカル企業と手を携えて新たなビジネスを立ち上げることを目指しているわけです。現在、ドイツ、シンガポール、タイ、台湾、香港、深セン、上海、ベトナム、韓国、アメリカなど、海外にも主要拠点を持っており、それらを軸にグローバル市場での事業開拓を進めていきます」

 その取り組みの1つとして、台湾の半導体商社であるワールド・ピース・グループホールディングスとの協業体制を強化。同社の日本法人を買収し、海外のサプライチェーンをさらに強固なものにしている。特に今期はレスターホールディングスの未来を決めるターニングポイントと位置付け、大きな飛躍を描く。

「経営のポートフォリオとしては、半導体をはじめとする電子部品全般のデバイス事業が1つ。もう1つが太陽光発電、放送機器、リモート教育などのシステム関連事業。さらに、非接触端末関連のIT事業で、医療関係にも進出しようと考えています。そこにエンジニアリングを加えた、4つの事業でシナジーを生み出していきます」

明日死ぬとしても、大きな夢を追い続けたい


新社屋をバックに

 自社の事業拡大に注力する一方、今野さんは会社経営を行う者の使命として、社会課題解決の取り組みにも意欲的だ。

「人の命には限りがあるが、企業は永遠。これは、私の持論です。2022年に設立した『Konno&レスター財団』は、農業と水産の大学研究機関に助成金を出すことを目的としています。私財も寄付し、日本中の農学部や水産学部の研究者を支援していきたい」

 食に関わる社会貢献として、Delicias Smileというブランドも展開している。これは、レスターグループが持つIoT技術などをフル活用して、完全閉鎖型の植物工場にて野菜を栽培する事業だ。害虫や農薬などを心配することなく、安心・安全な食の安定供給を目指している。そこでつくられた野菜は洗わなくても食べることができる。商品はコンビニエンスストアのサラダなどに使われるほか、大手スーパーなどでも販売中だ。

 他方、レスリングへの熱も冷めることはない。東日本八大学女子リーグ戦「デリシャススマイル杯」のスポンサーも務めており、これは日本体育大学理事長の松波健四郎さんから依頼されたものだ。レスリングを通じて長く積み上げてきた絆は、今でも固くつながっている。松波さんや専修大学レスリング部の後輩である、現石川県知事で校友会副会長の馳浩さん(昭59・国文)など、多くの人々が今野さんを慕っているのだ。

 企業経営、社会貢献、そしてレスリングと、今野さんの夢はまだまだ尽きない。

「これまでも、目標売上高を1,000億円、3,000億円、5,000億円と引き上げては、達成してきました。今は1兆円を目指しています。これが嘘でないことを証明しますから、ぜひ見ていてください」

 実現できなければホラ吹きになってしまうと笑いながら、その目には強い光を宿す今野さん。親に内緒でレスリングをして準優勝に輝きながら、学級委員長も務めていた若い頃から、バイタリティは少しも変わらない。

「何歳になっても、明日死ぬとしても、夢を語っていると思う。それに、夢は大きいほどいい。少し手が届かないくらいのほうが、どうしたらその夢を叶えられるか、必死になって考えますから」

 80歳を超えてなお、ますます盛んな今野さんの精気に満ちた表情は、校友に強い勇気と力を与えることだろう。

(2023年7月取材)
専修大学校友会誌 鳳翼No.105より転載

こんの・くにひろ●北海道札幌市出身。1940年生まれ。専修大学にレスリング特待生として入学。新卒で入社した企業で専務を経て、1987年4月株式会社バイテックを設立。2019年4月の経営統合に伴って株式会社レスターホールディングス代表取締役会長兼CEOに就任した。2020年4月には同社代表取締役CEOに。2023年6月より、事業再編を推し進めることを目的に代表取締役会長兼社長CEOに就任し、現在に至る。座右の銘「有言実行」を自ら体現する。