コウケンテツの“名作ごはん劇場”
カフカが教えてくれた、たったひとつの真実
フランツ・カフカ著『変身』から
『変身』は1915年の作品。日本語翻訳版は岩波文庫、角川文庫、新潮文庫など。翻訳によって世界観が変わるから、自分がしっくりくるものを探してみては?
コウさんが、こころを動かされた映画や舞台、アート、文学を、“食”の視点で描く随筆。
「独断、妄想的タラレバ視点。ご一読を!」(コウさん)
なぜりんごなのか。何かのメタファーには違いない。この定義も解釈が分かれるところ……
"ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目を覚ますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変わっているのを発見した"
このあまりにも突拍子がなく、あまりに有名な冒頭からはじまる物語。これがカフカの『変身』だ。
カフカほど多くの解説書が存在し、またその解釈の違いについて、大きな議論を呼ぶ作家はいないだろう。なぜならカフカは何も教えてくれないからだ。
読み進めると頭がただただ混乱する。なぜ? いったい? 何のために? その疑問だけが脳内をひたすら駆け巡る。メタファーに次ぐメタファー。この表現、シーンには何か意味があるはずだと、懸命に自分なりの解釈を捻(ひね)り出そうともがく。この時点で、あなたはすでにカフカの迷宮という沼にハマってしまっているのです。
しかし、その答えは、どのページをめくってみても見当たらない。カフカの辞書に「答え」という文字は存在しない。
物語は驚くほどあまりに淡々と進み、驚くほど何も起こらない。そして、明らかにどうでも良いと思われる些細(ささい)な出来事を、微に入り細を穿(うが)って描写する。まるで読み手側が何かを試されているかのように、そんな描写が延々と続く。
現状を何とか打破し、家族へ理解を求めんともがくグレーゴル。だが、もがけばもがくほどに事態は何ひとつ改善しない。それどころか、むしろ悪い方に転がり落ちていく、地獄のループ。
途中、思わず勘ぐってしまうのだ。ひょっとして、この人(カフカ)は、我々(読者)をからかっているだけではないのか、と。
そしてここまでひっぱるからには、最後には何か壮大なラスト(オチ)があるはずだ! そうに決まっている! その一念で何とか読み進めていくが、カフカの辞書に「期待に応える」という文字も存在しない。
まるでT.S.エリオットの『空ろな人間たち』の一節、"こんなふうに世界は終わる こんなふうに世界は終わる こんなふうに世界は終わる 爆発ではなくすすり泣きで"のように、すっきり感は皆無なのだ。
しかし、グレーゴルとその家族の「本当の関係」が明らかになるにつれ、家族関係や社会とうまくいかず、抑圧された何かを抱え、世の中の生きづらさに直面している人々にとっては、「意味の分からない虫に変身した男の物語」から、「自分自身の物語」へと転換され、己の深層をえぐる名作へと変貌(へんぼう)を遂げる。
カフカの態度はそのほとんどの作品で徹底している。そこには、まだ社会に出る以前の僕にとって、誰も教えてくれなかった唯一無二の真実があった。
それは「世界はどうしようもなく不条理で不公平である」というあまりにシンプルで冷徹な現実だ。
カフカは徹底的に世界の不条理を描く。それは生きるという一大事において、何をどうあがいても、救済は訪れない、ということを意味する。
それならば、その真実をまずは受け止めなければならない。そこから出発しなければならない。と、腹の底から理解できた瞬間、自分自身で世の中に出る気構えができたと感じた瞬間でもあった。それ以降、あまりに不可解で難解だと思っていた『城』、『審判』も僕にとって光り輝く存在となった。
あのカフカからポジティブなメッセージ(勝手な解釈で)を受け取った稀(まれ)な例かもしれないし、ありえないミスリードだとお叱りを受けるかもしれない。しかし、実際カフカ本人も、本作品を「コメディー」だの「失敗作」だのとはぐらかしているので、そんな解釈があるのも仕方がないのだと許してほしい。
今回は、レシピは無しのりんごだけ。なぜ、りんごなのかは……ぜひ、りんごをかじりながら『変身』を読んでいただければ。そしてカフカ沼にどっぷりとハマってみてほしいです。
(文・写真= コウケンテツ)
コウケンテツ さん

コウ・ケンテツ 1974年、大阪生まれ。料理研究家。世界30カ国以上を旅して料理を学んだ経験を持つ。3児の父として親子の食育活動に奮闘中。『アジアの台所に立つとすべてがゆるされる気がした』他著書多数。料理家ユーチューバーとしても活躍中。
