乳がんの治療の選択に役立つ「多遺伝子検査」というものを知っていますか。これは、がん組織中の複数の遺伝子を調べる検査で、なかには、切除手術後に「抗がん剤治療を受けるべきかどうか」の判断材料を示してくれる多遺伝子検査もあります。「不必要な抗がん剤投与を避け、一人ひとりに適した治療を提供したい」との思いから、この多遺伝子検査を積極的に取り入れている、大阪ブレストクリニックの芝英一院長に話を聞きました。
その抗がん剤、あなたに必要?それとも不要?
──乳がんの薬物療法には、いくつかの選択肢があるそうですね。
乳がんは、がん細胞の性質によって大きく四つのタイプに分けられます。「ホルモン受容体」という女性ホルモンと結合するたんぱく質が腫瘍(しゅよう)に発現しているか、「HER2(ハーツー)」というがん細胞の増殖を促すたんぱく質ががん細胞の表面に過剰に発現しているかによって、下表のようにそれぞれ異なる薬物療法が選択されます。
例えば、「ホルモン受容体陰性・HER2陰性」のトリプルネガティブというタイプは、一般的に「化学療法」、いわゆる抗がん剤の投与が必要になります。また、「ホルモン受容体陰性・HER2陽性」の場合は、「化学療法」と「抗HER2薬」投与を組み合わせて行います。
──とくに多く見られる乳がんが、「ホルモン受容体陽性・HER2陰性」というタイプですね。
全乳がん患者の約7割を占めるのが「ホルモン受容体陽性」のがんで、なかでも「ホルモン受容体陽性・HER2陰性」のタイプが多いです。このタイプの乳がんの場合、切除手術後に再発を防ぐために「ホルモン療法」を実施します。これに「化学療法」、いわゆる抗がん剤を併用するかどうかは、個別に判断します。
抗がん剤の投与は、腫瘍の大きさやリンパ節転移の有無、増殖のスピード、がんの“顔つき”(=がん細胞の異形度)、患者の年齢などから、総合的に再発リスクを考慮し判断することが一般的でした。
──抗がん剤を併用するかどうかの判断は、難しいものですか。
そうですね。先ほどお話しした様々な検査所見をもとに慎重に判断しますが、再発リスクを高い精度で見極めるのは非常に困難です。「念のために」と抗がん剤治療を行うこともありますが、実は、ホルモン受容体陽性の早期乳がん患者のうち、抗がん剤の効果が期待できる患者は一部にすぎないといわれています。つまり、本来は必要のない抗がん剤治療が一定数行われているということです。
抗がん剤には、脱毛や嘔吐(おうと)、気持ち悪さ、免疫力の低下など様々な副作用があるため、QOL(生活の質)は著しく低下し、多くの患者さんは大変苦しい思いをします。不必要な抗がん剤治療は当然避けるべきです。また、必要以上の治療が行われる「過剰治療」は、社会全体の医療費の増加を引き起こし、医療保険財政の逼迫(ひっぱく)にもつながります。
──逆に、抗がん剤が必要なのに治療を受けていないというケースもあるのでしょうか。
腫瘍径(=しこり)が小さくリンパ節転移もないので「ホルモン療法だけで問題ないでしょう」と判断しても、数年後に残念ながら再発してしまう患者さんは、一定数いらっしゃいます。この中には、抗がん剤によって命が救われる人もいるでしょう。そのような人に必要な抗がん剤治療が行われていないという状況は、再発リスクの増加を引き起こしかねません。本来なら適応となりうる治療がなされない「過少治療」もまた、深刻な問題なのです。
「再発リスク」を提示し、抗がん剤の効果も予測
──そうした課題の解決に役立つのが「多遺伝子検査」ですね。どのような検査でしょうか。
がん医療における多遺伝子検査とは、診断時に採取したがん組織や手術で切除したがん組織の複数の遺伝子を調べて、がんを診断したり、「薬が効きそうか」「副作用が出やすいか」などを調べたりする検査のことを指します。
私の病院でも取り入れている乳がんの多遺伝子検査は、乳がんの切除手術後に「どの程度再発しやすいか」「化学療法を併用すると効果があるか」が分かる検査で、治療の方針を選択する助けになります。この多遺伝子検査が適用されるのは、早期浸潤性乳がんで「ホルモン受容体陽性・HER2陰性」、脇の下のリンパ節転移が3個以内の場合に限られます。
──その「多遺伝子検査」で分かることについて、もう少し詳しく教えてください。
再発に関わる複数の遺伝子を調べることで、乳がんがどれくらい再発しやすいかという「再発リスク」と、化学療法によって再発をどれくらい抑えられるかという「化学療法の上乗せ効果」が分かります。検査で明らかになる0〜100の数値に応じたがんの再発リスクが示され、数値が大きいほど手術後に再発する可能性が高いとされます。
この数値が100に近いほど、再発リスクが高く、抗がん剤の投与が推奨されます。数値が0に近いほど、再発リスクは低く、ホルモン療法に化学療法を加えても再発率には差がないことが分かっています。つまり、原則として抗がん剤を投与する必要性は低いと判断されます。
さらに、手術後、5年間の標準的なホルモン療法のみの治療を受けた場合の、手術後の「遠隔再発」(乳房以外の部位での再発)が起こる確率も推測できます(リンパ節転移陰性の場合)。
従来に比べて、少ない自己負担額で受けられることも
──多遺伝子検査は、いまや世界各地で活用されているそうですね。
多遺伝子検査が登場した20年前は驚きました。「ほんまかな」と(笑)。でも、臨床試験のデータが蓄積され、すぐに世界の標準的な検査になりましたね。いまでは、米国臨床腫瘍学会(ASCO)、米国国立包括癌ネットワーク(NCCN)、欧州臨床腫瘍学会(ESMO)など、主要な乳がん治療ガイドラインのほか、日本乳癌学会のガイドラインにも掲載されています。
欧米と違って日本は自由診療の時代が非常に長かったので、高額な費用に検査をためらう患者さんも少なくありませんでした。国際学会などで、欧米での検査の広がりを耳にするたびに、忸怩(じくじ)たる思いがありましたね。ですが近年は、かつてより少額な自己負担で検査を受けられるケースも増えています。多遺伝子検査の普及は、個々の患者さんにより適した治療の拡大をもたらすことでしょう。
また、多遺伝子検査によって「不必要な化学療法を受けない」あるいは「必要な化学療法を受けて将来の再発を抑制できる」患者が増えれば、社会全体の医療費を抑制することとなり、医療保険制度の持続性を高めることにも寄与するといえます。
──今後、もっと多くの人に多遺伝子検査が知られるといいですね。
そうですね。乳がんの遺伝子検査というと、俳優のアンジェリーナ・ジョリーさんが予防的に切除手術を受けるきっかけとなった「BRCA遺伝子検査」と混同されることがよくあります。これは、「遺伝性乳がん卵巣がん症候群(HBOC)」の将来の発症リスクを明らかにする検査で、多遺伝子検査とは全く別物です。認知度アップとともに、正しい理解が広まってほしいですね。
多遺伝子検査は「ガイド」役 医師と協働で意思決定を
──先生の病院で実際に多遺伝子検査を受けた患者さんの、検査結果や反応はいかがですか。
例えば、「ホルモン受容体陽性・HER2陰性」でリンパ節転移が1〜2個ある患者さんの場合、従来は化学療法を併用することが大半でした。ですが多遺伝子検査を受けた結果、再発リスクが低くホルモン療法だけでOKという判断になったというケースは数多くあります。
一方、再発リスクが高いという結果が出る場合も、患者さんにとってはプラスに働いていると思います。というのも、この検査結果は、再発リスクに関する数値がわかりやすく可視化されるものが多いからです。目指すゴールが明確になることで、患者さんが前向きに治療に向き合うことにつながっているように感じます。
──多遺伝子検査を受けるにあたって、注意してほしいことはありますか。
理解してほしいのは、多遺伝子検査によって治療方針が自動的に決まるわけではないということです。年齢のほか、ご家族のサポート状況や仕事の都合、医療機関への通いやすさなどの事情も考慮する必要がありますし、吐き気や気持ち悪さといった副作用の出方も個々の体質によって異なります。それらを総合的に考えたうえで、患者さんと一緒に治療方針を決めていくことになります。
多遺伝子検査は、患者と医師の意思決定をサポートする「ガイド役」のような存在と捉えるといいでしょう。
──では、医師とのコミュニケーションにおいて、心がけた方がいいことは何でしょうか。
「先生にすべて任せます」という態度ではなく、ご本人の考えや気持ちをはっきり伝えてほしいですね。患者さんが納得できないまま治療を進めるのは避けたいですし、家庭の事情などもお話ししてくださらないと分かりません。また、病気や治療についてある程度は患者さんも勉強し、理解を深めるようにしてほしいですね。ご自分の大切な体のことですから。
「何を重視して治療するか」を患者さんと医師が共有して意思決定をすることをShared Decision Making(シェアード・ディシジョン・メイキング)といいますが、その姿勢で一緒に治療に取り組んでいけたらと思います。
──読者にメッセージをお願いします。
乳がんは、日本の女性の「9人に1人」がかかるとされ、女性が罹患(りかん)するがんの中で最も多くなっています※1。一方で、部位別の死亡数では、乳がんは5番目に後退します※2。つまり、適切な治療を受ければ「治りやすい病気」であるともいえるわけです。乳がん検診は必ず定期的に受診してほしいですし、罹患した場合も適切な治療を受けてしっかりと治癒を目指していきましょう。
※1 2019年。国立がん研究センターがん情報サービス 統計・がん登録より
※2 2020年。国立がん研究センターがん情報サービス 統計・がん登録より
芝 英一
しば・えいいち/1977年、大阪大学医学部卒業。大阪大学医学部附属病院、西宮市立中央病院等を経て、86年、ハーバード大学医学部留学。その後、大阪大学医学部腫瘍外科助教授、大阪厚生年金病院乳腺・内分泌外科部長等を経て、2005年から大阪ブレストクリニック院長。