150年近い歴史を持つグローバル製薬企業イーライリリー・アンド・カンパニー(以下、リリー)が日本法人を設立して、今年で50年。革新的な医薬品の開発のみならず、多様性を生かすための社員たちのグループ活動、女性活躍といった組織づくりでも存在感を示している。その取り組みは息が長く、自分らしく働ける企業文化への変革に20年以上を要したという。また、十分に満たされていない医療ニーズに挑んだ「認知症の治療薬」の開発には、35年以上もの時間を費やしてきた。変化の激しい時代に、挑戦・成長し続ける要因はどこにあるのか。9月21日の世界アルツハイマーデーに先駆けて、経済学のスペシャリストで大阪大学の安田 洋祐(やすだ ようすけ)教授が、日本イーライリリーのシモーネ・トムセン社長と語り合った。

歴史ある使命を軸に、患者さんのために変化を続ける

安田 50周年おめでとうございます。日本に拠点を設けてから、この50年の規模の拡大ぶりは、目を見張るものがありますね。

トムセン ありがとうございます。1975年に会社は設立されましたが、設立前にも日本の国内企業と協力関係にあり、リリーと日本は100年近い歴史があります。社員は当初わずか4人からスタートして、今や2800人ほどになりました。

安田 100年近い歴史ですか。それは驚きですね。その長い歴史の中で、特に力を注いでこられた研究開発の領域はどの辺りでしょうか。

トムセン がんや糖尿病、近年では自己免疫疾患や肥満症、アルツハイマー病といった神経変性疾患にも注力しています。研究開発には困難が伴いますが、継続こそが患者さんにとって大きな違いを生み出すと考え、投資を続けています。その結果、臨床開発プロジェクトの数は日本国内トップクラスです。基礎科学の基盤や優秀な人材がそろっている背景もあり、グローバルでも日本は重要な役割を担っています。

安田 研究を支える環境が日本にはそろっているんですね。製薬業は開発から販売までに時間がかかりますし、投資のリスクが大きいビジネスだと思いますが、それでも成功を積み重ねてこられた印象です。日本の市場にはどんな特徴を感じていらっしゃいますか。

トムセン 日本の市場は、欧米と比べるとヨーロッパに近い印象ですね。例えば、全ての人々が医療にアクセスしやすい皆保険制度はドイツなどでも見られます。一方、日本特有の課題は、超高齢社会であることや、医療財政のひっ迫、海外と比較して新薬承認に時間を要する「ドラッグラグ」、そもそも国内で新薬が発売されない「ドラッグロス」などです。これらは自社だけの問題ではないので、業界全体で政府とともに解決策を議論しています。当社には日本での長い歴史と多くの投資があるからこそ、成功だけでなく課題も共有して、課題解決に貢献したいという思いがあります。

安田 課題を自社だけでなく業界全体のものと捉えているのですね。その姿勢は御社の企業哲学に支えられてきたものでしょうか。

トムセン はい、リリーでは「世界中の人々のより豊かな人生のため、革新的医薬品に思いやりを込めて」という使命(OUR PURPOSE)をグローバルで共有しており、社員一人ひとりにとって大事な言葉になっています。

安田 企業活動の軸となるような言葉ですが、どのような意味を持つのですか。

トムセン 核にあるのは「最先端の科学」と「思いやり」の融合(Unites Caring with Discovery)です。医薬品開発において重要なのは科学の応用だけでなく、患者さんにきちんと寄り添うこと。この両輪がなければ医療も健康も前に進みません。使命自体は古くからあるものですが、むしろ今の時代にこそ強い意味を持っていると感じています。

安田 非常によくわかります。経営においては、使命をどう解釈し、それを企業の価値にどのように落とし込むかが問われますよね。特にグローバル企業では、その価値を進化させ続けることが企業の持続性を決めるとも感じています。

トムセン 製薬企業は研究開発のイノベーションを通じて、患者さんに新たな治療の選択肢を届けています。ただ、その価値は時とともに変化するため、常に進化させなくてはなりません。イノベーションを生み出すには、多様な人々の背景や特性を受け入れて生かす「インクルーシブな企業文化」の醸成が必須です。ただ、同時に、急速に変化する環境の中で、会社として、社員として、リーダーとして自らの価値を問い続け、変化を恐れないことが、絶え間ないイノベーションのためには大変重要です。

安田 結果を出していても、それを続けるために変わることの重要性を大事にされているのですね。とても意義深いです。

全ての社員が最大限に能力を発揮できるように

シモーネ・トムセン社長
「絶え間ないイノベーションのためには、『インクルーシブな企業文化』の醸成と、自らの存在価値を問い続けて変化を恐れない姿勢が重要」と語るトムセン社長

トムセン 戦略的に「インクルーシブな企業文化」をつくる上で、社員のグループによる取り組みが大きな役割を果たしています。約20年前に「ジェンダー平等」のグループから始まり、その後「世代」「性的マイノリティ」「病気や障がい」に関する三つを加えて、現在は四つのグループがあります。職場で社員が受け入れられ、尊重されていると感じられるよう、有志の社員がボトムアップで変革を進めています。最近は「病気や障がい」に関するグループと協働して、当事者の社員が働くうえで直面する壁やそのストーリーの共有に力を入れています。そこで得られた知見をベースに、全ての社員が能力を最大限に発揮できるよう、オフィス内施設を使いやすいように変更し、イベントでの手話通訳や文字起こし機能の導入も進めています。

安田 取り組むテーマが幅広く、インクルーシブな文化を大切にされていますね。経営学の研究では、多様性が常にイノベーションを生み出すとは限らず、多様性のない同質的な組織の方が、円滑なコミュニケーションを通じてイノベーションを生みやすい可能性も指摘されています。御社は、多様性だけでなく、コミュニケーションを取りやすい組織づくりもしっかり進めている印象を持ちました。

トムセン さらに加えると、社内だけではなく、患者さんも多様なのだということが重要です。我々に多様性があれば、患者さんやご家族、医療従事者の多様性に対応でき、様々なシーンでより良い意思決定がなされていくものと信じています。

安田 なるほど、やはり「患者さんのために」という視点が根幹にあるのですね。御社では社会の鏡として多様性を推進しながら、その実装を可能にするコミュニケーションにも力を注いでいる。その積み重ねがイノベーションを起こし続けられる組織文化につながっていると感じました。

トムセン 「インクルーシブな企業文化」により、とにかく声を上げやすくしたいと考えています。まだ道半ばですが、ボトムアップ型の取り組みなので、さらに発展できるように真剣にサポートを続けます。

安田 それぞれのグループが御社の理念の象徴なのだと思いますが、こうした企業文化を魅力的に感じて、人材も集まってきそうです。

トムセン その効果も感じています。当社はLGBTQなど性の多様性への理解促進を目的とした「レインボーパレード」に協賛しています。今年は東京や大阪以外で初めて「神戸レインボーフェスタ2025」に参加しました。当社からは経営層を含めた社員とそのご家族や友人を合わせて150人もの参加があり、街中でのパレードを盛り上げました。まだ研修中の新入社員もこの輪に加わったことで感銘を受けて、職場の心理的安全性の実感にもつながったようです。

安田 象徴的なエピソードですね。多様性の話題の延長で、ぜひ女性管理職の活躍についてもおうかがいしたいです。

トムセン これも取り組んでいる最中ですが、当社の組織は30%以上のリーダーが女性です。役員では45%以上にもなります。製薬業界での女性登用の機運を高めている存在だと自負しています。というのも、海外のある調査によると、ヘルスケアに関する意思決定は、その多くを女性が担っており、ジェンダーのバランスはビジネスの観点でも良い影響があると私たちは考えているからです。

安田 国際的な学力調査(※)によると、文章の読解力はどの国も女性の方が非常に高く、数学の理解力は男性の方が少し高くなっています。直近の同じ調査では、日本はほかの先進国と比べて女性の数学的な思考能力が非常に高いんですね。それにも関わらず、彼女たちが十分に活躍できていない現状がある。そうした中で、御社のように先進的な取り組みを進める企業があることは、社会的にも経済的にも大きな意義があります。ただ、優秀な女性を一人だけ取締役のメンバーに加えていい仕事ができるかというと、難しい面があります。経済学の研究でも、一定の割合を確保することで初めて女性たちの主体性や積極性が発揮されるといわれています。思い切った取り組みで女性の割合を高めることで、女性一人ひとりのポテンシャルをより生かせる、とてもいい見本だと思います。

(※「OECD生徒の学習到達度調査(PISA)」から)

トムセン 社員の声を反映し、コロナ禍以前よりフレックスタイム勤務や在宅勤務制度を整えてきました。それらは育休明けの働き方などにも応用されています。また、幅広い分野に女性リーダーがいて、部署を超えた横軸のネットワークも生まれています。メンターもいて、経験ある女性から若い女性に共有される学びもあり、社員の活躍を進めるカギになっているようです。もちろん女性に限らず、多様な社員にあてはまる取り組みです。

認知症治療薬の開発に取り組み、社会にも貢献を

安田洋祐さん
「認知症への取り組みが御社の企業文化の醸成にもつながっていることが、とても印象的」と語る安田さん

安田 認知症への取り組みも活発であるとうかがっていますが、日本では、具体的にどのようなプロジェクトを進めているのですか。

トムセン 認知症は非常に難しい分野ですが、リリーの使命に基づいて治療薬の開発を続けています。また、超高齢化が進む日本においては、製薬企業として革新的な医薬品の開発や提供のみならず、認知症の当事者が尊厳を保ち、希望を持って暮らすことができるよう、共生社会の実現に向けた取り組みも推進しています。例えば、認知症への正しい知識や理解を促す活動や他企業も巻き込んだ意見交換、また軽度認知障害(MCI)や軽度の認知症の早期気づき、適切な対応についての情報提供を始めました。このように社会の認識や環境を変えていくことで、「これまで通りの生活や、趣味を続けたい」「家族の負担になりたくない」と思っている当事者が、不安や偏見を乗り越え、早期に治療へとアクセスできる道も開かれます。

安田 アルツハイマー病は進行性の病気なので、重症化するほど医療・介護コストが増加します。これは世界的な社会課題であり、早期段階からの介入は社会全体の持続性に直結します。御社の取り組みは、医療経済の観点からも大きな意味を持っていますね。

トムセン リリーで認知症の研究が始まって35年以上経ちました。100億ドル以上を投資し、失敗や後退、挫折を乗り越えてきた成果が今につながっています。まずは症状の進行を遅らせること、そして将来的には進行を止めたり、当事者の方々が就業や社会活動を継続したりできるという可能性を追求して、今後も研究を続けていきます。

安田 この病気への取り組みは、まさに御社の企業文化の醸成に結びついていますね。日本で介護を担うのは現状では女性が多く、治療の進化で問題が緩和されれば、改めて女性が社会で活躍する後押しになるでしょう。早期治療が広がることで、当事者もケアを担う方も就業や社会活動の継続が可能になり、社会のウェルビーイングにもつながる好循環を生みますね。

トムセン おっしゃる通りです。加えて、当社は2016年から神戸市が推進する「認知症の人にやさしいまちづくり」の取り組みに賛同し、新薬開発のための臨床試験の促進、また認知症や認知症の人に関する正しい理解や知識を広げる活動を連携して行っています。

安田 自治体と民間企業が補完し合う取り組みは諸外国でも注目されています。外部連携の動きも御社は積極的なのですね。

トムセン そうですね、当社はNPO団体や行政と一緒に、若くして家族の介護や世話を過度に行うヤングケアラーのサポートにも、社会に先駆けて社員主導で取り組んでいます。まだまだ認知を拡げる段階ですが、就業へのプラスの効果や社会的な負担の減少も期待し、若者個人はもちろん、その先の患者さんを含むご家族や社会への貢献をめざしています。

安田 様々な取り組みにおけるパイオニアだということですね。日本企業の典型的な特徴として、「先駆者」となるのが苦手な一方、他社が取り組む「いいこと」を取り入れる追随のスピードは非常に速い点が挙げられます。ぜひこのまま御社に牽引(けんいん)していただきたいです。

トムセン 我々は2030年までにリーディングカンパニーとしての地位を確立するという目標を掲げていて、日本での自社の価値や存在意義を見直しながら、常に新たな挑戦を続けています。まずは使命の通り、ビジネス面だけのリードではなく、患者さんに対して重要な治療選択肢を届けるという責務を果たすために行動し、行政機関などとも連携していきます。そして、科学を進展させるため、リスクを取ってイノベーションを促進させます。様々な青写真を描きながらイノベーションを起こすことで、日本の医療に貢献できると信じていますし、日本で歩ませてもらった50年の恩返しにもなると思います。

安田 そのためにも、「インクルーシブな企業文化」を追い求めているということですね。

トムセン その通りです。最後に、ダイバーシティとインクルージョンの本質を表現した印象的な言葉を引用したいと思います。「Diversity is being invited to the party; inclusion is being asked to dance(多様性はパーティーに招かれること、インクルージョンはそこでダンスに誘われること)」。ただその場にいるだけではなく、まずは踊ってみる。そのためには、安心して楽しく踊れる環境が必要で、この考え方は個人だけでなく組織にも当てはまります。寄せていただいた期待を胸に、社員とともに「インクルーシブな企業文化」とイノベーションを追求し、我々の使命を達成していきたいと思います。

シモーネ・トムセン社長(左)と安田洋祐さん
「日本への50年の感謝とともに、未来への継続的な挑戦と企業文化」について語り合う、トムセン社長(左)と安田さん

シモーネ・トムセン
日本イーライリリー株式会社 代表取締役社長
1968年生まれ、ドイツ出身。2002年にイーライリリー・ドイツ入社。同グループオーストリアでゼネラルマネジャー、日本でマーケティング本部長、ドイツ・ハブ社長などを歴任し、19年から現職。在日米国商工会議所関西支部の理事なども務める。学生時代に日本への留学経験も。自身もワーク・ライフ・バランスを大切にし、ロールモデルにもなるよう後進の育成にも取り組んでいる。

安田 洋祐(やすだ ようすけ)
大阪大学大学院経済学研究科 教授
1980年生まれ、東京都出身。東京大学を卒業後、プリンストン大学(アメリカ)に留学し、経済学の博士号を取得。政策研究大学院大学を経て、大阪大学に着任。2022年から現職。専門はマーケットデザイン、産業組織論など。政府の委員やテレビ番組のコメンテーターとしても活躍する。著書に『日本の未来、本当に大丈夫なんですか会議』(日本実業出版社/共著)ほか。