もうひとつの銀山 国史跡めざし

小西孝司
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 世界遺産石見銀山大田市)から南南東に約35キロ。広島との県境に久喜(くき)・大林銀山遺跡(邑南町)はある。

 広さは東西3キロ、南北2キロ。「間歩(まぶ)」と呼ばれる坑道や露頭掘りなど約1500カ所以上もの採掘跡が点在し、多数の炉跡や煙道からなる製錬所跡、製錬後のかす(スラグ)を捨てた「からみ原」も残る。主に戦国期から明治時代まで稼働し、方鉛鉱から銀や鉛を取り出した。

 2007年、石見銀山が世界遺産になると、ここにも観光客が訪れるようになったが、遺構はほぼ未整備のまま。そこで地域住民らが「久喜・大林銀山保全委員会」を結成。間歩入り口の補強や樹木の伐採、草刈り、案内板整備に取り組んだ。集会所の一室を資料館とし、古地図や文書、鉱石サンプルなどを展示。無料のガイドも務める。

 「世界遺産の石見銀山に負けちゃおられんのですが……」。約20人のメンバーを率いる森脇政晴会長(77)の顔はどこか寂しげでもある。多い年は年間500人ほどを案内したが、今年は新型コロナウイルスの影響でわずか20人ほどにとどまっている。

 鉱脈発見は12世紀の鎌倉時代と伝わるが、戦国期の毛利氏が本格的に採掘を行った。毛利氏の拠点、吉田郡山城(広島県安芸高田市)とはわずか20キロほどの距離。町教育委員会の佐々木義彦・文化財係長は「ここの銀が豊臣秀吉への上納に使われた可能性もあります」。毛利氏の鉄砲に鉛が使われた可能性もあるとされる。

 江戸期は石見銀山とともに幕府の直轄領になり、大久保長安の支配下に。17世紀初めの文書には「たばこや」「かみゆい」の屋号が記され、様々な職業の人たちが集住していたらしい。「○○千軒」の地名や多数の寺院跡からは往時の繁栄がうかがえる。

 全国各地で鉱山開発が進んだ明治に入ると、「銅山王」で知られる津和野の堀家が経営。全国の銀山で第9位の産出量を誇ったことも。森脇さんは「採掘から精錬までの工程や、かすの形状までよくわかる銀山です」と話す。

 石見銀山では、酸化鉛が灰に染みこむ性質を利用した銀の精錬法「灰吹法」が国内で初めて導入されたが、その鉛が久喜から供給された可能性も近年、指摘されている。

 邑南町は2010年から、一部のエリアを調査。現在、国史跡の指定を求めて文化庁と協議中だ。コロナの影響で作業が滞ったというが、佐々木さんは「国史跡になれば町で初めて。久喜銀山をもっと知ってもらいたい」と期待する。

 さらに本格的に調査すれば、採掘跡は2千カ所を超すとみられるという。自治体と住民が連携し、もうひとつの銀山の歴史はさらに深掘りされていくようだ。ガイドの問い合わせは森脇さん(090・4651・1415)へ。

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