埼玉県内の高齢者相談センターでケアマネジャーとして働く鮎川雄一さんが介護の世界に足を踏み入れたのは44歳の時。約20年間勤めたファッション業界からの転身でした。思い切ったキャリアチェンジの背景には、東日本大震災で経験した価値観の転換がありました。現在、福祉職のかたわら、年代や障害の有無を越えた地域コミュニティー作りにも取り組んでいる鮎川さんに、介護の仕事のやりがいや今後の目標を聞きました。

あゆかわ・ゆういち
1968年、東京都生まれ。2011年の東日本大震災と同時期に勤め先のアパレルメーカーが事業廃止に。2013年、44歳のときに福祉・介護の世界に飛び込む。介護老人保健施設やリハビリに特化した認知症対応型デイサービスなどを経て、現在は埼玉県新座市の高齢者相談センターで介護支援専門員(ケアマネジャー)。鮎川福祉デザイン事務所代表。日本リハビリテーションスポーツ学会理事、一般社団法人日本応用老年学会所属。
取得資格はホームヘルパー2級課程修了(現・介護職員初任者研修課程)、介護福祉士、介護支援専門員(ケアマネジャー)、終活ライフケアプランナー、メンタル心理カウンセラー、ジェロントロジー・マイスター(一般社団法人日本応用老年学会認定)、キッズアスレティックス・インストラクター(日本キッズアスレティックス協会認定)など。

――ファッション業界から介護の世界へキャリアチェンジをしたきっかけは、何だったのですか。

2011年が大きな転機でした。3月、勤めていた女性向けアパレルメーカーが事業廃止になり、ぼうぜんとしていた2日後、今度は東日本大震災が起こりました。自分の未来が不透明なまま、テレビをつけると増え続ける行方不明者や死者の報道が流れている。とても次の仕事を見つけるような気持ちにはなれなくて、ほとんど家に閉じこもっていたんです。気力が湧かず、暗い気持ちがずっと続きました。

――失業に震災が重なり、なかなか前が向けなかったわけですね。

そうです。ただ、そんな時にお客さんだった宮城県気仙沼のブティックのバイヤーの方とようやく連絡がついたんです。ずっと心配していたんですが、やっと電話があって「商品もお店も全部、津波に流されました。でも、社員みんな生きて、頑張っています」と泣きながら言われた時、自分の心で何かががらりと変わりました。家もあって、家族もいて、五体満足の自分が自暴自棄になりかけていることが情けないと思ったんです。「このままじゃダメだ」「何か社会に貢献できる仕事や命に関わる仕事がしたい」と思いました。

アパレル業界に勤めていた頃の鮎川雄一さん
アパレル業界に勤めていた頃の鮎川さん=本人提供

――すぐに福祉や介護の仕事に目が向いたのですか。

いいえ、ずっとアパレル業界にいたので、最初は自分が得意とするファッション関係で社会貢献ができないかと考えました。起業家セミナーに参加して助言を受け、障害者に向けたファッションブランドを立ち上げようと動き出しました。その時は、失業後に始めたFacebookが大きく役立ちました。自分が住む埼玉県所沢市のコミュニティーに向けて発信したら、市内にある国立障害者リハビリテーションセンターや高齢者福祉施設など、障害のある方や福祉・介護の関係者などとつながることができたんです。さまざまな意見を聞いて、片手でも着られる洋服や、車椅子の方がはきやすい柔らかいデニムなどが作れないだろうかと、可能性を探りました。

障害者向けファッションブランドの立ち上げを目指して、介護事業所にニーズをヒアリングする鮎川さん(左から2人目)
障害者向けファッションブランドの立ち上げを目指して、介護事業所にニーズをヒアリングする鮎川さん(左から2人目)=本人提供

――実際に起業に至ったのですか。

サンプルはいくつか作ったのですが、当時は障害者向けファッションの情報も少なくて、実際に製品化して販売するまでには至りませんでした。ただ、その過程で、福祉・介護の仕事に対する興味が強まっていき、元いたアパレル業界に戻りたいと思う気持ちが消えていきました。周囲に促されて専門学校に通い、ホームヘルパー2級(現・介護職員初任者研修課程)の資格を取得しました。そして、資格を取った学校の紹介で都内の介護老人保健施設で働き始めました。

――40代でのキャリアの大転換ですが、どんな苦労がありましたか。

「最年長の新人」として、いきなり終末期に近い高齢者の方が150人くらいいる介護の現場に飛び込んだので、最初は大変でした。座学で学んだとはいえ、実際の状況はさまざまですし、専門用語が多くて、なぜ自分が怒られているのかさえ分からないこともありました。正直に言うと、その頃は毎日辞めようと思っていましたね。でも、退路を断ってこの世界に飛び込んだ意地もありましたし、アパレル業界に戻りたくもなかった。介護福祉士*の資格を取ろうという目標があったので頑張れた部分もありました。

介護福祉士*=「実務経験ルート」では国家試験を受けるには3年以上の実務経験が必要。2017年1月以降は、実務経験に加えて「実務者研修」の修了も義務づけられた。

2013年、介護の世界に入って最初に務めた都内の介護老人保健施設で
2013年、介護の世界に入って最初に勤めた都内の介護老人保健施設で=鮎川さん提供(画像を加工しています)

――大変な時期を乗り越える時、支えになったのはどんなことでしたか。

一番は、家内の支えと2人の子どもたちがいたことです。介護の仕事と並行して所沢市で地域活動をやっていたので、そちらで楽しさを感じながらバランスをとっていた部分もあると思います。夜勤はあっても、シフトが明ければ家に帰れるので、家族と過ごす時間も増え、地域活動の予定も立てやすくなりました。始発から終電まで働いて、売り上げの数字に常に追われて胃がキリキリしていたアパレルの営業職時代に比べたら、精神状態はずいぶんよかったですね。

――「地域活動」とは、どのような活動をしているのですか。

地域でインクルーシブなコミュニティーづくりに10年以上、取り組んでいます。所沢市では地域共生社会の実現を目的に、年齢、性別、障害の有無に関係なく参加できるユニバーサルスポーツのイベントを開催してきました。福祉の入り口のハードルを下げて、介護保険制度など公的制度のすき間を埋めるような「インフォーマルサービス」の開発を、全国に広げていきたいという夢があります。

鮎川さん(右端の赤い服の男性の後ろ)が主宰するユニバーサルスポーツの仲間と
鮎川さん(右端の赤い服の男性の後ろ)が主宰するユニバーサルスポーツの仲間と=鮎川さん提供

――現在、お勤めの高齢者相談センターでは、どんな仕事をしていますか。

高齢者相談センターで働き始めたのは、実はつい最近のことなんです。ここは「地域包括支援センター」とも呼ばれ、高齢者の方々の困りごとの「ワンストップ駆け込み寺」のような所です。心身の機能が衰えても、その人らしい生活を送れるよう総合的に支援しています。

――ケアマネジャーの仕事の面白さは、どこにあるのでしょうか。

ケアマネジャーは、要支援や要介護になった利用者さんの、新たな人生の道筋をつくる仕事だと思います。それがケアプランに凝縮されています。心身機能が低下する中でも、介護保険制度を使いながらどのように日常生活を送るか、そこをマネジメントするのは責任の重い仕事です。ですが、支援することによって、その方の人生が本当に変わっていきます。利用者さんと家族が何を望んでいるかをしっかりとアセスメントして、介護保険制度という制度を活用しながら、前向きで快適に生活できる一日一日をデザインしていく日々は、充実しています。

鮎川雄一さん

――アパレル業界から転職して約10年。今どんな時にやりがいを感じますか。

これまで介護老人保健施設や認知症デイサービス、リハビリに特化したデイサービス、高齢者相談センターで働いてきましたが、人生が終わりに近づいている人たちに、ポジティブな変化を起こせた瞬間が何よりうれしいですね。できなかったことができるようになることもありますし、行動心理症状(BPSD)がひどく、怒りっぽかったり、元気がなかったりした認知症の方が一瞬でも笑顔になってくれると、この仕事をやっていて本当に良かったなと感動します。それから、胃ろうをつけていた人が回復して胃ろうを除去して、口から食事をして「うまいな」と言った瞬間も忘れられません。高齢者のほとんどは慢性の病気を抱えているので、介護は医療とは切り離せません。医療と介護がより連携を強め、ソーシャルワーカーやケアマネジャーがチームを組んで、丁寧に高齢者を見守っていくことが、充実した介護につながっていくはずです。

――お話を聞いていると、介護の仕事は鮎川さんの天職のように思えます。

楽しみながらできているので、そうかもしれませんね。実は、私のような「異業種からの転職組」がどんどん増えれば良いなと思っています。特に私のような、営業職の人の転身は大歓迎です。営業で培った、困りごとやニーズを聞き出すヒアリング力、アイデア力、相手に納得してもらうコミュニケーション能力は、人と向き合い続ける福祉・介護の世界で大いに生きるはずです。

アパレル業界とは180度違う世界で、最初は面白くないところもありましたが、数字ばかりに追われて疲弊していた頃とは違うなと感じています。転職を考えた際はぜひ福祉・介護の世界も検討してほしいなと思います。「人生100年時代」ですから、40代、50代での転職もめずらしくなくなってきています。超高齢社会なので、福祉・介護のニーズはますます高まっていきます。

鮎川雄一さん

――今後の目標を教えてください。

人間を、心と体、社会的立場などあらゆる角度からケアできる「全人的ソーシャルワーカー」を目指して、社会福祉士の資格を取ろうと勉強中です。高齢になると行動範囲や人間関係が狭まってくるものですが、コミュニティーが持つ、人のネットワークや自然、公共施設などの資源を生かし、新しい世界を提案すると、その人の人生が豊かに変わっていきます。だから介護施設や介護保険制度だけに頼らず、地域のそうした資源を活用した「インフォーマルサービス」のデザインをする「福祉のデザイナー」として社会に貢献していきたいですね。

取材協力/町 亞聖

*本事業は、「令和4年度介護のしごと魅力発信等事業(情報発信事業)」(実施主体:朝日新聞社・厚生労働省補助事業)として実施しています。

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