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担当者が見通せなかった時代の変化 02年W杯スタジアムの光と影

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藤木健
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 2002年のサッカーワールドカップ(W杯)国内初開催に向け、1990年代は各地でスタジアム建設が進んだ。税金投入への地元の反発は少なく、むしろ各自治体が誘致合戦を繰り広げるなど、バブル景気の余韻が色濃く残っていた。

日本サッカー考 スタジアム編

サッカーW杯の再招致をめざす日本サッカー協会にとって、スタジアムは大きな課題です。2002年日韓大会の舞台となった会場はどのようなプロセスを経て建設されたのか。当時の担当者の証言から、今求められるスタジアムのあり方を考えます。

 「W杯はやりたい。でもそもそも国際試合を行うことすら苦労していた時代で、開催に耐えうるスタジアムがない以上は造るしかなかった」

 長く日本サッカー協会の職員として働き、91年にW杯招致委員会が立ち上がった当初からスタジアム建設や自治体との折衝を担当した小松原博和さん(72)は振り返る。

 最低でも4万人以上とされる収容人数を満たすのは、当時旧国立競技場と神戸ユニバー競技場だけだった。その2会場も、チームの使い勝手の悪さ、警備面の課題や放映のための設備などを見ると、とてもW杯を開ける会場ではなかった。

 招致委は、開催地に立候補する条件としてスタジアム建設に加えて、約2億5千万円の招致負担金を求めた。それでも、15の自治体から手が挙がった。その後に日韓共催となり、国内会場は10に絞られた。うち8会場が新設、2会場が改修する形でW杯基準のスタジアムが建設された。さらに開催会場とはならなかったものの、愛知県にサッカー専用の豊田スタジアムができるなどした。

 93年のJリーグ開幕も大き…

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この記事を書いた人
藤木健
スポーツ部|サッカー担当キャップ
専門・関心分野
サッカー、国際関係

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