千葉商科⼤学(千葉県市川市)で⼈間社会学部教授を務める和田義人さんは、もともと百貨店のグループ会社に勤めていました。バイヤーなどの傍ら、会社の新規事業の一環で介護老人保健施設の新設プロジェクトに関わったのをきっかけに介護福祉の世界に足を踏み入れました。転職先の医療法人グループで百貨店時代の経験を生かし、さまざまな社会インフラ施設を立ち上げた経験から、和田さんは、「⾃分⾃⾝が『変容』するチャンスを逃さないで介護福祉の世界に飛び込んできてほしい」と話します。

わだ・よしと
1958年生まれ。1984年、成城大学経営学部を卒業後、大手百貨店のグループ会社に就職。介護老人保健施設の立ち上げに関わったあと、1998年に医療法人社団翠会グループへ。介護老人保健施設、特別養護老人ホーム、病院、保育園などの発足に携わる。千葉商科大学人間社会学部の新設に伴い、2014年4月に同学部教授に就任、「介護福祉士プログラム」などを通して人材育成に携わっている。共著に『これからの「共生社会」を考える』(福村出版)と『はじめての人間社会学』(中央経済社)がある。

――現在は大学の教壇に立つ和田さんですが、介護福祉の世界との最初の接点はいつごろだったのでしょうか。

大学卒業後に就職した大手百貨店のグループ会社時代です。もう20年以上も前の話ですね。マーケットがどんどん高齢化していくなかで、百貨店自体も形態を変えていかなければならないという状況になりました。私はバイヤーを務めていたのですが、「単に介護福祉の商品を扱うだけではなく、高齢者を対象にしたハード面を手がけましょう」と提案したら、そのアイデアが採用されたんです。介護を必要としている高齢者の自立と在宅復帰を支援する点に意義を感じて、介護老人保健施設の立ち上げをめざしました。

1986年、28歳の頃、百貨店の売り場奥の事務所内に座る和田さん=本人提供
1986年、28歳の頃、百貨店の売り場奥の事務所内に座る和田さん=本人提供

――百貨店が介護福祉施設づくりに携わるとは、意外な発想ですね。

そうかもしれません。ただ、私の3つ歳上の兄が若くして急性骨髄性白血病で他界しているんです。私自身も14歳の時に十二指腸の病気で生死の境をさまよいました。こうした経験から「生きることを大切にしたい」「人生の終わりを豊かにしたい」という思いがあって、そうした考えが、命に寄り添う介護福祉に結びついたのかなと思っています。

――とはいえ、新規事業の推進はそれほど簡単ではなかったのではないでしょうか。

当時、まだ38歳と若く、介護福祉のことをほとんど知りませんでした。でも、知らないからこそ尻込みせずに飛び込んでいけた部分はあったと思います。結局、東京都内の事業を落札することができました。生活をプロデュースする百貨店が、高齢者の生活を支える介護福祉の施設を立ち上げることには、大きな意義があったと今でも感じています。

和田義人さん

――バイヤーとの「二足のわらじ」で介護老人保健施設の設立に集中できたのですか。

午前中は医療法人グループとやりとりをして、夕方になったらオフィスに戻ってバイヤーの仕事をこなす。そうした生活を続けながら、2件目の介護老人保健施設の立ち上げを進めていたら、医療法人グループの理事長から「うちの仕事に専念してもらえませんか」と声をかけていただいて。私自身も介護福祉の仕事に熱中していましたし、理事長からの「あなたのようにサービス精神のある人と働きたい」という言葉を意気に感じて転職を決めました。

 ――それはいくつの時の話ですか。

確か40歳の時だったと思います。正直に言うと、最初は迷いました。ほとんど未経験の世界ですし、妻を含め、周りからも反対されました。考えて考えて、何を自分の意思決定の判断基準にしたかと言うと、最後は自分の親でした。自分を産み育ててくれた親はだんだん年をとるし、もしかするとこれからやろうとしている介護福祉の仕事が最高の親孝行になるかもしれないと思ったんです。振り返ってみると、とても前向きなキャリアチェンジになったと感じています。

和田義人さん

――介護の世界に飛び込んでみて、どうでしたか。

戸惑いはそれほどなかったですね。というのも、百貨店時代に身につけたサービス精神が介護福祉の世界でもとても重要なものだったからです。

百貨店時代は「顧客第一主義」を徹底的にたたき込まれました。例えば、品出しにしても、ただ商品を補充するのではなく、お昼は主婦層に向けたもの、夕方以降は仕事帰りのビジネスウーマンに向けたものと品ぞろえを変えます。翌日の天気予報が雨なら、一枚羽織るものを追加する。そういった、「顧客第一主義」で先を読む力は医療法人グループでも大きく生きたと感じています。振り返ると、理事長からの「あなたのようにサービス精神のある人と働きたい」という言葉の真意は、そのあたりにあったのかもしれません。

―― 相手のニーズを読み取り、それに応えるのは百貨店も介護福祉の世界も変わらないということですね。

そういうことですね。医療法人グループでは事務長や開発準備室長として介護老人保健施設、特別養護老人ホーム、病院、保育園といった社会インフラの発足に携わりましたが、常に「顧客第一主義」を追求していました。その究極の一つが認知症に特化した病院の立ち上げでした。

認知症の根本的な治療方法はまだ見つかっておらず、支える側の家族の負担やストレスは相当なものなんです。認知症の充実した介護と、支える家族の負担軽減の両方を実現できないかと考えた時に、利用者を認知症に絞り込んだ病院という発想が出てきました。ただ、認知症患者だけで285床を用意するという提案をしたら、周りからは猛反対されました。

2004年8月、埼玉県和光市の認知症専門病院の開設2年目に開かれた夏祭りで浴衣姿で司会を務める和田さん=本人提供
2004年8月、埼玉県和光市の認知症専門病院の開設2年目に開かれた夏祭りで浴衣姿で司会を務める和田さん=本人提供

―― どういった反対意見があったのでしょうか。

「認知症の方の介護は一人でも大変なのに、285のベッドでケアをするなんてできるはずがない」といった意見がほとんどでしたね。確かに従来の考え方からすると無謀なアイデアだったのかもしれません。認知症の症状の一つに「ひとり歩き」がありますが、285人の「ひとり歩き」を防ごうとしたらそれは現実的ではありません。ですから、全く逆の発想で病院をつくることを思いつきました。認知症の方の立場になって考えてみたんです。

閉じ込められたら、嫌な気分になって、どうにかして脱出しようとする。じゃあ、逆にオープンにしてみたらどうなのか。自由に出られるようにして、病棟を出たら、ガーデンがあって、穏やかな東屋があって、椅子があって座って談笑できるような病院だったら、患者さんも過ごしやすいのではと考えたんです。

和田義人さん

――逆転の発想ですね。

当然、反対の声もありましたが、患者さんとスタッフの距離は近づきましたし、結果的には大成功でした。「24時間面会自由」にすると家族関係もストレスなく継続されましたし、スタッフも常に見られているのでサービスが向上したんです。面会者は通常の病院の40倍くらいになって、厚生労働省の方も見学に来るほどでした。面会者が多ければ食事の介助の手も増えますし、患者さん本人もうれしいわけです。誰もが幸せになれる病院をつくることができたと思っています。

――そんな充実した15年ほどを過ごした医療法人グループを2014年に退職されました。

退職したのは、千葉商科⼤学の⼈間社会学部の教員へキャリアチェンジをしたからです。

実は千葉商科大学が医療や福祉の人材を育てるために人間社会学部人間社会学科を2014年に新設するということで、その2年くらい前からアドバイスを求められていたんです。私は「ほかの大学とは違うことをやったほうがいいですよ」と伝え、行政や企業、地域の人々と協働するような、現場で生きるアクティブ・ラーニングの重要性を説明しました。医療法人グループで過ごした経験から、実体験に勝るものなしと考えていたからです。「教えるのは実務とつながった先生が多いほうがいいですよ」などと伝えていたら、「であれば、お手伝いしていただけませんか」というお声がけをいただいたんです。

――2度目のキャリアチェンジですね。

医療法人グループでそれなりの実績と役職もありましたし、辞めるのは気が引けましたよ。ただ、「これまで携わった社会インフラを進化させてくれるのは人材だ」と思っていたので、思い切って転職に踏み切りました。

――人材育成に関して、特に意識していることはありますか。

人生最後の仕事としての人材育成と言うとかっこよく聞こえますが、私たちが育てているわけではなく、学生たちが自ら育っていく場作りをしているだけ。学生が主体的に考える環境を整えていて、例えば、3年生の「ケースメソッド」という取り組みでは、自分たちでテーマを決めて、ある社会課題について調べ、考え、発表してもらったりしています。「ケースメソッド」では介護福祉に絡んだテーマを選ぶ学生が多いですね。「eスポーツで高齢者の健康を支える」といった今すぐビジネスにつながりそうな新しい視点も出てきて、頼もしいですよ。

――介護福祉の世界も進化しているということですね。

日本は超高齢社会に突入していて、介護福祉の世界はマーケットとしては間違いなく拡大していきます。そこに対してビジネス的に関わる意義は小さくありません。大きなマーケットとは、つまり利益につなげることもできるということを意味します。その利益をまた社会に還元していくという考え方をすれば、介護福祉は社会貢献の意味合いが強く、とてもやりがいのある仕事だと言えます。

和田義人さん

――40歳を目前に転職した和田さんのようにミドル層で介護福祉の分野へのキャリアチェンジを考えている方にどんなことを伝えたいですか。

私自身の経験から、⾃分⾃⾝がトランスフォーメーションするチャンスを逃さないでほしいということです。それまでの人生の延⻑線上にある「変化」ではなく、まったく違うものに「変容」するチャンスをつかんで自分の生き方を豊かにしてほしい、ということです。

ですから、異業種からの転職は大歓迎です。介護福祉の世界には新たな変化をもたらしてくれる「触媒」が必要です。私がかつてそうでしたが、何も知らないからこそ、できることがあります。私自身は百貨店で培ったサービス精神や営業力が生きましたし、最初は知識がないからこそ、患者さん、利用者さん、ご家族の声をとことん聞いて業務に反映させていきました。

あとは、これからの介護福祉の世界には「遊び心」が必要だと感じています。決められたマニュアルやタイムスケジュールにとらわれずに柔軟に対応する余裕、介護する側の心のゆとりが、介護される側の日々を豊かにすると思います。そして、柔軟に対応する余裕や心のゆとりは人生経験が豊富な方のほうが身についています。ミドル層の方にはトランスフォーメーション、つまり「変容」を恐れずに、ぜひ介護福祉の世界に飛び込んできてほしいですね。

取材協力/町 亞聖

*本事業は、「令和4年度介護のしごと魅力発信等事業(情報発信事業)」(実施主体:朝日新聞社・厚生労働省補助事業)として実施しています。

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