多くの国や政府は、国外に味方を増やすためのパブリック・ディプロマシー(広報文化外交)に取り組んでいます。日本が今、その中核に据えているのは、アニメや漫画などのポップカルチャーでしょう。ただ、訪日客の内情をみると、狙いと結果に食い違いがあるかもしれない、と、歴史学者の堅田智子さんはいいます。日本とドイツの関係史を研究する堅田さんが、日本が外に発信したい「日本のイメージ」を歴史の視点から読み解きます。
関西学院大学准教授・堅田智子さん寄稿
この記事のポイント
・教科書にも出てくる「シーボルト」がつくった日本イメージ
・万博の歴史的な役割
・日本発ポップカルチャーがうみだす状況
・インバウンド調査から見える訪日客の姿
・伝えたいイメージと「虚構」とは
日本の広報文化外交(パブリック・ディプロマシー)について考え始めるにあたって、まず読んでいただきたい一文があります。
「日本人は広々とした自然にひたって楽しむことを心から愛していて、冬の衣をまとっていても自然は彼らの活発な空想力に活気を与えるだけの充分な魅力をもっている。また同時に彼らは、小旅行の最中でも自然の喜びを宗教的な信心や歴史的回想によって深めるどんな機会をも利用せずにはおかない」
これは、西洋の医学を広めたことで知られるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796~1866)が著書『江戸参府紀行』に記した「日本や日本人のイメージ」の一つです(出典は、1967年の斎藤信訳による平凡社版の98ページ)。日本や日本人が、なんとも魅力的に描かれていますよね。
「鎖国」下にあった江戸時代(1603~1868)、駐日オランダ商館長が将軍に謁見(えっけん)するために、平戸・長崎と江戸を往復する「江戸参府」と呼ばれる行事がありました。ちょうど200年前の文政9(1826)年の江戸参府には、オランダ商館付医師だったシーボルトが参加。出島を出発し、陸路と海路を利用して江戸へと向かい、1カ月間の江戸滞在を終えて出島に帰着するまで143日かかり、歴代最長でした。シーボルトは、助手のビュルガー、門人の高良斎、二宮敬作らと道中に様々な調査をし、各地の日本人との学術交流をしました。「鎖(とざ)された国」日本で、行動を制限されながらも、みずからの目で見て、体験して得た生きた情報を、シーボルトは著書『日本』や『日本植物誌』、『日本動物誌』を介して欧米に発信しました。その結果、シーボルトが著書の中で示した日本の素顔が「日本や日本人のイメージ」として欧米の人々に伝わり、「極東にある未知の国=日本」への関心を高めていったわけです。
外交政策を円滑かつ効果的に行うべく、国際社会における日本理解を促進する外交手法に、広報文化外交があります。政府間での伝統的な外交に対して、広報文化外交は、文化交流や政治的価値、外交政策からなるソフトパワーを利用して、その国の魅力を発信し、外務省が他の政府機関や民間と連携しながら他国の国民や世論に直接働きかけていく、広く開かれた外交手法です。
■日本のイメージの転機 1873年ウィーン万博
日本における広報文化外交の歴史をひもとくと、冒頭で紹介したシーボルトがつくった「日本と日本人のイメージ」を大きく変える転機が1873(明治6)年にありました。日本政府が初めて公式参加したウィーン万国博覧会です。
この万博は、全権代表・岩倉具視が率いる遣米欧使節団によると、万博の参加国が文明国としての威信をかけて最新の産業技術を展示する「太平の戦争」でした。
この「戦い」の中で、日本政府は独自の展示手法を用いました。
日本の展示室の入り口では、名古屋城の黄金のしゃちほこが出迎え、壁には鎌倉大仏の原寸大の張抜が掲げられ、武家屋敷模型が並んでいました。これらの「巨大ノ物」によって日本を体験させる空間展示で現地の話題をさらったわけです。
実は、こうした展示方法を提言した人物こそ、その数十年前に素顔の日本を描くことで「日本や日本人のイメージ」を作ったシーボルトの長男、アレクサンダーでした。
アレクサンダーは、明治政府…
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